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勉強のための投資。【お金のハナシ】

こんにちは、ななを。です。

 

 

「勉強には投資したほうがいい。」

「お金を惜しまず学ぶために使うべきだ」

 

 

 

 

と言う言葉をよく聞きます。

今や様々な媒体で独学は可能ですし、お金をかけることが全てでもないけれど、なるべく自分の勉強のためにお金をかける事は悪ではないでしょう(それぞれの価値観によるけれど)。

 

 

 

 

例えば勉強することに対してお金を払う事は賛成で、お金を払う価値も知っていて、勉強したいと思っていて、惜しまず勉強に使えたら良いな、と思っている、その前提でのお話です。

 

 

 

 

音楽をやっていて様々な面で悩むことがありますが、

師弟関係において、レッスン料などを聞きにくかったり、あまり答えてくれないことがあります。

レッスン料を聞くことは失礼にあたり、聞くべきではない。とおっしゃる方もいますし、そう習ったこともありました。

音楽家がお金を口にすると胡散臭くなるし、音大生はお金なんか語らず夢語ってほしいと言われたこともありました。

 

 

 

実際「お金のこと」について触れ、記事にするのはどうなのだろう?と思ったりしました。一回書きかけ、消し、躊躇もしました。

しかし、学生が終わってすぐの今、お金に対してシビアな時期だからこそ思っていることを書き残し、これからの価値観に何かつながればいいなと思って書き残します。

 

 

最初に言っておきたい事は、特にこれで誰かを批判したいわけでもなく、羨むのでもなく、今の思いや事実を書き残したいという意思で書いた記事です。

1、消費者として

 

私自身、まだまだ学ぶことはたくさんあるけれど、これまでも、たくさん勉強させてもらった。

単純に何をやるにも本当にお金が必要だと身に染みる。

 

音楽にかかるお金

 

大学で音楽を学ぶような人であれば、

 

「楽器購入費」「楽器メンテナンス費」「防音設備費」「楽譜代」「音楽関連の本代」「レッスン代」「講習会費用」「移動費」「御礼代(ピアノ以外の方は特に)」「衣装代」

 

 

 

などなど、他にもたくさんお金がかかるだろう。

 

 

 

全員が全員高級な楽器を持ち、楽譜をたくさん持ち、講習会に毎年行くわけではないし、本当に素晴らしい演奏をする人には奨学金もあるし、コンクールの賞金もある。

本であれば、図書館に行けば本はあるし、購入希望を出せば購入してくれることもある。

 

 

 

しかしやはりお金がかかる。

 

 

 

次の曲を弾くためには楽譜を買わなければならなくて、憧れの先生の講習会に行きたいと思えば海外渡航費用は安い時期でも数万円かかる。

 

 

 

バイトをすればいいかもしれないし、奨学金が取れるくらいの努力と実力と運とコネクションがあればいいかもしれないけれど、バイトをする時間があれば練習に費やしたいし、奨学金を取れるのは本の一握りだ。

 

 

(奨学金が取れるような人が、本当に本当に努力し、惜しまず絶えず努力している事や、自分自身がそこまでの努力をしているかどうかは、この際、棚に置かせていただく。)

 

出費としての現実

 

楽譜は、出版社を変えて比較したほうがいいし、信頼のある出版社の楽譜を見た方がいいし、imslpのように無料で見れる楽譜もあるけれどきちんと勉強しようと思うとやはり楽譜を購入しなくてはならなくなる。

 

図書館で見比べることはできるし、コピーは一部できるが、丸々一冊はできないし、複写には条件がある。

 

たくさんの曲を勉強するべきだし、現代曲も勉強した方がいいけれど、1冊数ページで何千円と値が張るものもある。

 

曲に関しての本は読んだ方がいいし、論文も読んだ方がいし、音楽系の雑誌も読んだら勉強になるけれど、全て買うとかなりの金額になるし、雑誌の定期購読は高いし、ネットでの情報は信頼できないものもあるので気を付けなくてはならない。

 

学校の図書館が充実していればいいけれど、充実していない場合は自分で購入するか、購入希望を出して、何ヶ月も待って買って頂けるのを待つか、買ってくれない場合もある。

 

楽器も、家には置かず学校に練習に行く人もいるけれど、やはり実家にはほとんどの人が楽器を持っているだろう。いい状態の楽器で練習した方がいいだろうけれど、その楽器はメンテナンスを行ったりするにはお金がかかる。

 

海外の本場に行き、尊敬する先生に習い、素晴らしい環境を体験し、音楽に溢れた日々を過ごし、素晴らしい仲間と出会う。その素晴らしさは、真剣に勉強する人ほど身に持って知っているだろう。「この時期は安いよ!」そうは言っても、アルバイト代で楽譜と日本での公開レッスンや、御礼、それに関する交通費などを賄っていたら、一体どれだけ働かなくてはならないのだろうか。

 

まぁ、毎日質素に質素を重ね、遊びに行かず、海外に行くため以外に貯金をせず、少々アルバイトを増やすか、鬼のように練習をし、奨学金を狙って行けば行けなくないだろうし、行けるけれど、そこに到達するにはかなりの辛抱と、欲と熱意と集中力と精神力がいる。

 

そして、努力したからと言っても結果は裏切るし、まぁそれは努力とは呼ばないのだろうし、結果が全てじゃないし、そこが本質でもないけれど、理想と現実との葛藤は常に付き纏うものだ。

 

素晴らしい演奏するから音楽一本で食べていけるわけでもなければ、音楽一本で食べていくことが全てでもないし、ある突出した得意分野があれば食べて行けたりする。本質と食べていくことも違うのだ。でも、本質だけが全てなわけでもないし、その人それぞれが音楽を奏でている意味は、それぞれあるのだ。

 

知ってはいる事実だし、それが現実だし、それ以上でもそれ以下でもないけれど、ただただ事実として葛藤を重ねる。でも、そもそも食べていくために音楽をやっているわけではない人もいるし、ただうまくなりたいという気持ちでやっていると、そのギャップを知った時のなんともいえない葛藤も始まったり。まぁ葛藤しない人も稀にいるかもしれない。

 

でも結局、音楽を愛してうまくなりたいと一心に思い、貫ける人がトップに立っているのか?とも思うけれど、とあるインタビューで「小さい頃から夢だったピアニスト、世界中まわれて楽しいですか?」と言われたピアニストが「わかりません。わからないんです。」と答えていた某番組は少々思い出深い。よく編集でカットされなかったな、と思うのだが、まぁ、「愛している」のと「楽しいか」と、「活躍している」と「夢の実現」は全て別ベクトルか。比例はしない。

2、提供する側として

 

さて、ただただ事実をつらつら書いたのだけれど、特に何かの脈絡もなく書き連ねてしまった。

 

実際自分自身、ここまで音楽を続けさせてもらえていることがどれだけ恵まれ、幸せかという事は、ここに書かずとも感じている事であるし、全てが叶っている人も、そこまでの努力や辛抱があったからだし、それがなかった人もいるだろう。

 

何か妬みや僻みのように聞こえないといいのだけれど、どの位置にいても上がいれば下がいて、価値観は人それぞれだし、家庭環境も様々で、収入と支出とその価値観は個人と家族に依存する。

 

 

何かを教えることになった場合、何かを提供することになった場合、発言する場合、この上の事実を知らない人はいないだろうけれど、「理想」を知っていて、欲していても、現実問題、実現できるかどうかは本当に難しい問題がある、という事実は踏まえるべきなのかどうなのかは本当に難しい事実なのだと思う。

 

 

 

でもやはり、最低限お金を払っていただくことに対しての感謝の意はあるべきで、とある先生が「生徒先生という関係は、確かに知識やスキル、いろいろなことを教える立場だし、生徒から学ぶこともたくさんあるし、師弟関係もあるけれど、自分は生徒によって生活させてもらっていて、生かさしてもらっている、という事実がある。」という発言をしていた。

普段生徒には言わないだろうけれど、お互いに感謝の気持ちがあるかどうかで一つ一つの言動が変わる気がする。それは先生もだし、生徒も然りだ。

 

 

 

そして、音楽では「チケット代」は発言するし、「お金がない」ことは発言するのに、自分の「レッスン代」や「ギャラ」については言わないのはなぜだろう。という話にもなったが、これは最近「芸人」や「フリーのエンジニア」などの自分のスキルを売る人には付き物の悩みなのだと知った。

消費者としての悩みも知った上で、自分も経験した上で、でも自分の努力と経験とスキルとを考え、そして生活をしなくてはならない、という気持ち。全ての要素が絡み合う悩み。

 

 

 

「驕ってはいけないけれど謙遜してもそれはそれで失礼なのだ」と言われたことがあった。確かにその一面もある。納得した。

 

 

 

 

また、最近「固定給のある人の、自分磨きとしてやっていることの方が面白く、フリーランスで職としていることより、求められることが多い」というコラムを読んだ。そうか、確かにそんな一面もある。納得した。

 

 

 

 

 

また違う方面では、「プロボノ」という専門家が、職業上持っている知識やスキルを無償提供して社会貢献するボランティア活動があることも知った。素晴らしい活動だし、している方々を本当に尊敬する一方で、それができていない自分は自己嫌悪に陥りそうだ。

 

 

 

 

 

色んな価値観があって、難しい。

 

 

 

 

最近「日本人はブランディングが苦手だ」という記事を読んだが、事実そうなのかもしれないし、そうだとすれば日本人が自分のスキルを売るフリーランスは生きにくい職業なのかもしれないが、私は外国人とそんなに多くの会話を交わしたことがないので比較はできない。

 

 

 

だんだん話が逸れてきた。

3、ただ事実の羅列

 

何でこの記事を書こうと思ったのかというと、レッスン代を聞けない風潮って面白いなと思ったのだ。

 

 

 

「音楽の本質と金はつなぐべきではない」とか、「素晴らしい演奏に対価をつけるのは違う」とかまぁ色々言われるかもしれないし、高かくて払えないときに「その先生にその値段の価値がない」とか、という勘違いはして欲しくなくて、事実今生活と天秤にかけたときに、その金額は厳しい場合もあるという事実があるのだ。絶対値と相対値があるし、比較するものが自分の収入の中での値段と、その業界での値段はさらに違う。

 

 

 

 

上手くなるには課金が必要な時があるし(言い方はよくないけれど)、その先生に価値があることも知っているし、お金のことを話すなんてそんな野暮なこと・・・。と思うかもしれないけれど、例えば100000000円の絵画は素晴らしく、また、価値のあるものとわかるけど、買えるかどうかは別だし、値段の例が大袈裟かもしれないけれど、でも実際金額は小さくとも似たようなことなのではないだろうか。最低限の衣食住に関わらないものは、全て生活と天秤にかけられるだろう。

 

 

 

 

個人の店で、値段表示がもしされていなかったら?

 

 

 

レジに行って金額を聞いて申し訳なく返すときのような気持ちになるわけだ。

返品できるけど、申し訳ないし、でもこの商品に価値があることを知っていて、その対価は払いたいけど、今の自分には無理である。

 

 

 

 

中には、レッスン料金を聞くことは失礼にあたる、とおっしゃる人もいるし、私はそう習ってきた。

しかし、生きていくにはお金が必要で、綺麗事を言われても、払えなければ、そちらの方が失礼な気がするし、それで生活が圧迫するのもなんだか違う気もする。

 

 

 

難しい世界だ。

 

 

 

 

終わり。

 

 

〜今日の小話(あとがき)〜
なんだか、誰向けに書いた記事か分からなくなってしまった。
元々は、値段は公にしていきたいね、勉強したくても難しい人がいるね。限度もあるね。でも勉強は大切だけど、勉強できるって贅沢だね。感謝してこ。という話を書こうと思った。けれど、なんだかそれだけでもなくて、思ってることの羅列になってしまった。

レッスン料の値段を不特定多数に公にするかどうかは個人の自由の気がするし、必要としている人が聞けば教えてくれるなら良いなぁと思うけれど、事実この問題は提供する側と消費する側では目線が違うので、改善は難しい気もする。それに、やはりお金を提示すると良い印象を持たない人もいる。難しい事実だ。

コンビニで店員をしていると「この人毎日1000円使って、お昼分しか買っていかないけれど、食費いくらかかってるんや、、、、てか健康なもの買っていかんのかな。」とか思うし、同じようなことを思っている友達がいたのだけれど、消費者としてコンビニに買いに行くときは、駄菓子は買ってしまうし、少々高くなる日もある。そして店員(知り合い)に「健康なもの食べなくていいの?こんなの食べるイメージじゃなかった(カップ麺)、てか金持ちやな」と言われた。知ったこっちゃない。最近毎日パスタだけとか白ごはんだけだったんだわ。給料入ったんだ、今日は。と思った日があった。

同じ人でも立場が変わると考えと目線が変わってしまうのは仕方がないのかもしれない。

もう何が言いたいか分からなくなってきたけれど、そんな葛藤の中で生きてるんだな。

金持ちになったら、そんなこと考えなくなるんだろうか。

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