な な を 。 の 制 作 本 棚 へ よ う こ そ 。

私は、自分の感性に自信がない。

こんにちは。ななを、です。

 

 

 

 

このブログでは、「ちょっぴり役立ちそうなこと」とか、

「社会に対して思うこと」とか、「覚えておきたいマインド」

について書いていることが多いのですが、

自分自身のことに触れてみたいと思います。

 

 

 

 

私は、自分の感性に自信がない話。

 

 

 

 

1、記事を書こうと思ったきっかけ

 

今日たまたま見た動画の感想を書いていたとき、ふと

「自分の感性に自信がなくて」

と書いた自分がいて、素直になった瞬間に、あぁ、そういうことかと

納得した。

 

 

 

 

今日見たものたち。

 

今日一日、なんだか気持ちが揺れるものに多く出会った日だった。

昨日、多重録音の動画をあげたのだけれど、その感想のコメントと、

フルーティストのnote記事と、

参考

アイドルマスターnote

作曲家の友達の動画。

 

 

見たものたちへの感想・・・の前に

 

前提として、私は基本的にSNSから影響を受けないぞ!(批判などに対して)

という気持ちで、「噂なんて、ただ噂。自分の目で確かめる」「人の好き嫌いに基本的に興味ない!」

そういうスタンスで暮らしているつもりだ。

 

けれど、「つもり」であって、元々はすごく情報に影響を受けやすい

性格の気がしている。

あまりに病みすぎて、2ヶ月くらいSNS一気に遮断してから(ラインすらしなかった)

少し距離感を持って接することができている。(気がしている)

 

 

そう、私は、SNSからは影響を受けない。(つもり)

 

 

見たものに対して

 

①コメント

コメントは、ありがたいことに褒めてくださるコメントだった。

動画を見て「センス」についてお褒めくださっていた。

まず動画見て楽しい気持ちになってくれる人がいること自体が嬉しくて、

尚且つ褒められるのはニヤニヤしてしまう。(嬉しい)

 

 

しかし、これがまたなぜ「自分の感性に自信がない」という話に繋がるのか。

それは実は私の中で、楽しんでやっているだけで、根拠のない『風の成り行き』

という感じでやっていることが多いからだ。

以前この記事で、自分の創造力がどこから来ているのかを考えてみた。

創造力は、才能なのか?【クリエイティブな発想力とは】

 

しかし、これはインプットの話で、アウトプットするときには

「風の成り行き」に任せたような”閃き”に任せたときに人に受け入れられることが多い。

そして、考え抜いたり、自分がこだわって収集しているものや、

創作した物、練習しすぎたものに関しては、受け入れられないことが多い。

さらに言うと、「風の成り行きに任せなきゃな」と思って”閃いた気になっているだけ”の時

受け入れられないことが多い。

 

 

人に受け入れられる前提で作っているものではないし、

「おもろいやん」とニヤニヤ(ワクワク)しながら創作してるのは

どれも同じだけれど、なぜかその過程において自分の知らないところに

ある何かを褒められ、さらに求められた時、途端に不安になってしまうのだ。

 

 

私が努力したとて、求められている方向性のものが作れる保証がない。

 

 

「22歳にもなって、未だに自分を分かっていないのはいかがなものか」

と、2年ほど前に注意を受けたことがあった。

でも注意を受けたからと言って、解決する問題でもなかった。

 

 

そして、今も彷徨っている。

そして、今日もまた、あるか分からない答えを探している。

 

②noteの記事

 

この記事は、これまた凄く共感する部分が多くて、

尚且つ、この記事を読んだ人たちが書く文章もまた共感部分が多かった。

 

 

昨日の記事でも言っているけれど、

多重録音の流行。

「どのレベルで魂売ってることになるのか」

と、歌舞伎役者の尾上右近さんが言った言葉が思い出される。

(2020年4月28日 グータンヌーボ2より)

 

 

内容的にも刺さったけれど、それを包み隠さず文章にでき

それを公表する事ができる強さも心動かされた部分だったように思う。

 

 

 

これがまたなぜ「自分の感性に自信がない」という話に繋がるのか。

もし仮に私が書いた記事の多くを読んでくれている人がいるならば気づいたかもしれないが、

大体私は「人のことを言っている」か、「事実を述べている」だけなのだ。

 

元々私がこのブログを始めたのは、いくつか理由がある。

その中の理由の一つとして、自分の自己紹介的な一つの制作物になったら面白いな。

と思っていた。

 

ピアノを弾くのも私だし、フライヤーも作るのも私。

動画作るのも私だけれど、ブログを作ったのも私。

 

できることは少ないけれど、でもできることを一つの場所で確認できる場所。

 

普段Twitterは「おもろいやん」というフィルターを通過できたものをおおよそ載せている。

(反したものは大体ツイ消ししちゃうね!あらま!)

 

 

Instagramは完全プライベート空間で、知り合いにしか公開していないし、

その中でも写真投稿は自分の目に映った「感動した景色」、「素敵だと思ったものや気持ち」を

投稿している。

 

 

 

でもブログでは、そのいずれにも該当しない、ちょっぴり頑固な私を形成した

身の回りのものだったり、自分自身を紹介する物で溢れさせる・・・・。

予定だったし、今もそうなっているけれど、

私自身の感性に基づく感想を出す場所にはなっていない。(理論的な物の感想は多いけれど)

そして今のところなり得ない。

 

 

 

なぜなら、私は自分の感性に自信がないから。

書けないのだ。

 

 

 

そして、包み隠さず(隠していないように見えるだけかもしれないが)公表していくスタイルに潔さを感じ、

そしてプラスの面もマイナスの面も出せる、そんな生き方いいなと憧れた。

 

 

③イケウチ作品

 

彼女の作品にはいつも心動かされる何かがある。

今日見た動画は、なぜか最後で涙をそそられた。

 

 

それは、彼女本人を知っているからなのか、それが関係あるのかないのかは分からないけれど、

なんだかブワッとなったのだった。

 

 

しかし、これがまたなぜ「自分の感性に自信がない」という話に繋がるのか。

実はこの動画を見て感想を書いているときにふと気が付いた。

 

 

私は、自分の感性に自信がないから、公に感想をかけない。

 

 

本人には素直な感想を言ったのだけれど、(書き始めて送るまでに3度程書いたり消したりしているけれど)

そのときに

「同じく涙そそられたって言ってた人がいた」

 

 

と言われて、「あぁ、これでいいのか。」と、なぜか安心するのだった。

でもそれってなんだか変なことで、

なんで自分の感性を信じてあげることができないんだろうか。

 

 

 

素直に「感動したわ〜」とか「泣いた〜」

とか言えばいいのに。

 

 

 

まぁ確かに、流行りの映画とか、ラフな感想を言い合うときは

そういうことを言う時もあるのだけれど、

なんだか違う、そうではない時、自分の感性を信じることができない。

 

 

 

 

2、私が自分の感性を信じるには

 

こんなことを、ここで公表して何になるのよ。

というかむしろマイナスでは。

 

 

 

そんなことを思いながらも書いている。

 

 

 

小学生の頃から、自分の感性を問われる「読書感想文」と「鑑賞」が苦手だった。

書くことが苦手なのではなく、それを求められている時間自体を過ごすのが苦手だった。

 

 

 

生前批判されていたけれど、死後に価値のでた作品を作った作家のように

自分の「感性」を信じて突き進めば良いのかもしれない。

 

 

 

でも、どの業界で生きるにしても

「大衆に受け入れられること」は求められている面があるのは事実で、

「個性が」とか「多面性が」、「人はそれぞれ違って」とかいう言葉が生まれている時点で、

前提として「人は皆一緒だと思っていたけれど」という言葉が来るわけだ。

 

 

 

これはもはや「自分の感情を信じるには」という話につながらない。

けれど、そう言ったいろいろな気持ちが相まって、

私の中から、自分が信じることのできる感性が生まれることは

なかなか難しいことなのであるし、

感性を自分が信じることも、また難しいことなのである。

 

 

 

3、終わりに

 

 

「良いものをたくさん見て感性を磨く」

という言葉がある通り、これからその自分の感性を知るために

「良いとされているもの」と出会っていくしかないのかもしれない。

 

 

 

その中で、自分を見つけれたらいいのかもしれない。

(「自分探しの旅」くらい信頼度の低いオチになってしまった。)

 

 

 

 

おしまい

 

 

〜今日の小話〜

SNSによって求められているコンテンツは異なると思うのだけれど、今日書いた記事は、なんだかnoteぽい。なんとなく。

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