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「教えること」への不安と、その解決法【新人講師】

こんにちは、ななを。です。

 

突然ですが、私は漠然と「教える事への不安」を抱えていました。

 

音楽大学を卒業をしたから、教員免許を取得したからといって、教えるプロになって卒業するわけではありません。

大学のカリキュラムの中に、「教えるためのスキル」を磨くものがあるわけでもなく、身に備わって卒業するわけではなく、不安を抱えたまま社会に放たれるわけです。

 

教員免許を取得するにも、発達心理や、プレゼン能力、教育に関する法律、カリキュラムについて学ぶことがあっても、大学の履修教科の中では具体的な指導法を学ぶ機会はさほど多くありませんでした。

つまり、「教える」ということに関しては初心者のまま卒業することは珍しくありません。

(中には大学在学中から母校の吹奏楽指導、音楽教室の講師をはじめ、卒業する頃には少し経験値を持っている同期は少なからずいます。)

 

一方で、音楽を続けていく上で、後進への指導は機会に恵まれることが多いでしょうし、実際収入のためにやっている人も多いかと思います。

 

そんな中漠然と膨らむ「教えること」に対する不安。

先日恩師からいただいた言葉がとても心に響いたので記事にしたいと思います。

 

 

 

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1、学び続けること

・恩師からの助言

 

先生だからといって完璧ではない。大人だからといって完璧ではない。
そして、完璧であるかのように取り繕う必要はない。
そして、正解もない。
学び続け、一生懸命にそのことに向き合っているうちは大丈夫。
学ぶことをやめた時は教師としても、人としても終わること。
学び続けるが故に、人に教えることを恐れすぎることはない。

 

というような内容のお話をしてくださった。

・教えることへの恐れ

私自身、小さい頃から「ピアノ講師」や、その先生方を教える「講師」への憧れがあった。

 

しかし、素晴らしい演奏家、素晴らしい先生、そして膨大な知識を知っていくうちに、

「私なんかが子供たちの、大切な時間を頂いて、成長のために何かを教えていて良いのだろうか?」

という気持ちが膨らんできた。

 

私がたくさんの恩師から習ったことのように、

「大切なことを教えることができているのだろうか。」

「私なんかまだまだ勉強しなきゃ、人に教えるだなんて。」

という思いが常にのしかかり、自分がレッスンをしたり、授業をした後は、憂鬱な気分になることが多かった。

 

せっかく憧れていた状況のはずなのに。

・「専門」とは何なのか

昨年私は、病院に入院していた。

その際に『「専門職」として崇められがちな職業でも結局は人間であり、完璧な人など一人もいないのだ』と思った。

 

担当の先生は本当に全力を尽くしてくださったけれど、私が助かった時、

「前例があったから。その後に勉強した。その前例がなければ、僕は一大事に気づけなかったし、君を助けれなかった。」

とおっしゃっていた。

 

 

技術が発達し、何でも答えがわかってしまうように感じるこの世の中で、

正解のない医療や音楽に従事する人は、常に正解を求められつつも、正解のない世界を追求していくのだと感じた。(命が関わっているかという問題はあるし、全ての人が正解を求めているわけではないと思うけれど。)

 

 

人よりも、ある特定分野の知識を常に学び続け、分からないことがあったら、困っている人がいたら、それまで蓄えた知識、経験を踏まえた上で解決策を一緒に探していく。

その、学び続ける特定分野のことを「専門」と言い、それで食べて行っている人の職を「専門職」と言うのかなと。

 

決して、「専門にやっている」人が完璧に知識、歴史、を知っているわけではないし、

この長い人類の歴史、知識、前例全てのことを覚え、理解している人なんて一人もいないだろうし、

「専門職」としてなくても学び続け素晴らしい貢献をする人もいるだろうけど。

 

2、大学とは

・教えるための授業

じゃあ、とりあえず大学で、「教えるための授業」をやってくれればいいじゃん。と思いに至る。

 

以前、オーストリアの音楽大学に進学した先輩から聞いた話では、オーストリアの大学(その先輩が通う大学)では、演奏指導の授業があるという話を伺った。

 

日本でそのような教育がある大学もあるのかもしれないが、私は今のところ知らない。

 

音楽を伝統として伝えゆくために、素晴らしい音楽の追求のための指導法を知る機会は羨ましく思う一方で、私の通っていた大学のとある教授に言われた言葉があった。

 

 

「どうして大学教員は教員免許が要らないと思う?

義務教育までは、学ぶ義務があって、全員が学びに行くところだけど、

大学は有志が学びたいことを学び取りにいくところだからだよ。

技を盗みに、学びに自ら行かなくてはならない場所だからだと思う。

まぁ、だからと言って、大学教員が教える努力を怠ってはいけないけどね。」

 

 

と、仰っていた。

 

そのお話をしてくださったことで、私は恥ずかしくなった。自分ではその事実は、分かっているつもりでいたからだ。

しかし、それを機に、改めて自ら学び取っていく貪欲さにかけていることを自覚し、心持ちを入れ替えた。

・実践した事

私は大学のレッスンにおいて、技術の上達や、演奏に関する知識、音楽性を磨く事はもちろん大切にしていきたいことではあったが、さまざまな先生のレッスンを受ける事によって、先生方の伝え方、レッスン一コマの流れ、何を大切にしてレッスンをするのか、という事にも注目した。

 

これは、教育実習の際も気をつけて注目する事にした。

 

伝える側と受け取る側で感じる事はそれぞれ違う。

 

一言の重さも受け手と伝え手で、かなりの違いがある。

 

教科の好き嫌い問わず、直感的に「好き」な授業と、「なんだかな」な授業は何が違うのか。

 

この注目は自分の中で、教えるために今後生かしていきたいメモである。

 

3、教えること

ずいぶん前に読んだ本で、こんな一文があった。

 

ものを書く仕事、先生と呼ばれる仕事というのは、このように自己嫌悪で稼ぐようなものだ。稼いだ分だけ気分が悪くなるのが、道理である。仕方がない。
(出典元:森博嗣/「やりがいのある仕事」という幻想)

 

この一文を読んだ時、なるほどなと思ってしまった。
自信を持って教えたり、書いたりしているようであっても、心の中では自己嫌悪に陥ってる人もいるのだなと。笑

4、最後に

話が散らかってしまったが、

冒頭に戻る。

先生だからといって完璧ではない。大人だからといって完璧ではない。
そして、完璧であるかのように取り繕う必要はない。
そして、正解もない。
学び続け、一生懸命にそのことに向き合っているうちは大丈夫。
学ぶことをやめた時は教師としても、人としても終わること。
学び続けるが故に、人に教えることを恐れすぎることはない。
と言う恩師の言葉。
そして付け加えて
若い先生には若い先生なりの良さ、ベテランの先生にはベテランの先生の良さがあるのよ。

 

その言葉は、自信が持てなかった私にとって、とても心強く響いた。
本を読んではレッスンし、人に相談してはレッスンし…。
知識だけではどうにもならないということを身に持って感じつつも、少しでも恩師に近づける日を夢見て、学び続け、向き合っていきたいと思う。
〜今日の小話〜

読書をしていて気に入った部分は写メをするようにしていたんだけれど、肝心の本の題名をメモしていないので、たびたび思い出せないのであった…。

3 Comments

けんけん

いつもブログを拝見しています。教えることも容易なことではないのだなあということがわかりました。
私は教える側になることはないですが、今回のブログを読んで、学ぶ側としても教える側の大変さが分かっていれば、学ぶ姿勢も変わるような気がしました。

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nanao

このような拙文読んで頂き、ありがとうございます。そして、学ぶ姿勢に対してのご意見、共感いたします。
蛇足ですが、人間生きている中で、教わることも多いですが、実は職にせずとも、気がつけば誰かに教える立場になるものだと私は考えます。
子供ができた時、後輩ができた時、はたまた、何気ない会話で相手が仮に何かを学び取ろうとしてくれた時。
そのふとした時にも、なるべく気をつけていきたい・・・。と思っています。なかなか難しいですけどね。笑

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けんけん

なるほど、そう言われてみれば確かにプロでなくても教える立場になることもありますね。
そう思うとよく気をつけていきたいという気になりますね。
ななを。さんにはいろいろと教えていただけて嬉しいです!!

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